感ガエル

日記になればいいなぁ

世界には解釈しかない。

これは僕が今持ってる考えで、広がればいいなという思いと僕の整理のために書くことにした。

 僕は今大学を休学して東京に住んでる。なんで?って聞かれることが多いけど、特に目的は無い。強いて言うなら、「自分についてもっと考えてみたくなった」かな。(理由を聞いてくれた人には申し訳ないけど、実は最近聞かれるのが苦痛になってたから、適当な理由を貼り付けてた。ごめん。笑)

 

で、正直僕自身なんでそんなに「何をするの?」とか「なんで?」って聞かれることが不思議だったから、どうして聞いてくるのかを考えてみた。そしたら多分だけど、みんな不安なんじゃないかなって言う結論にたどり着いた。

 最近になって休学する人が増えてきたけど、今でもまだ休学するのは日本では普通じゃない。正直僕も休学することに不安を感じたときもあったし、休学について考えるときに一週間くらい自分の家から出られなくなったときもあった。 まぁ、留学やインターンみたいな社会的に(見た目が)いい理由を持ってなかったから。「大学は四年で卒業して早く社会に出る事がいい」という考えがあるから、休学するときは周りから当然反対はあったし、相手に納得のいく理由を求められるときもあった。

けど、本当に大学を四年で出ることがいいことなんだろうか?説明できる理由がなければ休学してはいけないだろうか?

僕の先生の言葉を借りると、「人間は自分が思っている以上に自由」だ。

 「自分勝手やってもいいよ」ってことじゃない。

「自分の行動や言動に自分で課した自己制約が多いんじゃない?」ってこと。

 休学することによって就職が不利になるかもしれない。休学したら一年社会に出るのが遅れて社会に出ている人とのスキルの差ができる。親が休学なんて許してくれない。

 休学していた理由を自分言葉で説明できるなら休学して就職が不利になることは無いしそもそも自分のことがわからないまま就職して1年過ごしていたって、なんの意味があるんだろう?親は僕らが自分のレールに乗っかってくれることを望んでなんかいない。(レールに乗ることが正しいと信じる親もいるけど、それはその親が子が幸せになるための手段として自分の敷いたレールに乗ることが正攻法だと信じているから)親はいつだって僕らが幸せに生きてくれることを願ってくれている。休学が親に許されていないと思うのは悪いけどあなた自身が作った制約だと思う。(親に納得されなきゃ、親が納得する段階にあの手この手を使って説得してみればいい。僕がそうだった。)

 自分で勝手に付け加えた「自分法」がどれだけあるか見直してみると、意外と多いことに気づける。いらない不安を減らしていけばもっと身軽に生きられるんじゃないかな。

 

 で、まぁ東京をのんびり満喫してるんだけど、東京には本当にいろんな人がいる。人ってこんなに多いんだって実感できるくらいの人が毎日自分の生活を描いてる。彼らの生きる方法は様々で、僕はそれが垣間見えることも東京のいいところだと思う。

「世界には人の数だけ正解がある」みたいなフレーズを見たことがあるけど、

 僕は「世界には人の数だけ解釈がある」って言いたい。

 例えば、今世界は貨幣経済で日々動いている。その世界ではたくさん働いて、お金をたくさん稼ぐ人が良しとされ、働かずにお金が全く無い人は「何してんだ!」って言われる。つまり、働いてお金を稼ぐことが「正解」で働かずお金を稼がないことは「不正解」

 でもどうだろう?働いている人の中に働くことが何かをわかって、自分が何を生み出して生くのかわかっている人はどれだけいるんだろう。これがわかってもないのに働いている人なんてロボットに変えた方がよっぽどマシだとさえ思う。

 つまり、この世にはいろんな人がいる。その解釈が社会という物差しにあてがわれた時のみ正解と不正解が生まれる。

そして、人と人はその物差しによって図られた自分を他人と比較する。こんなことに意味があると思うだろうか?

 

 

 

僕は思わない。

 

 

 

確かに、この解釈に正解や不正解のレッテルを貼って不正解を殲滅することは社会をよくしたり、そのシステムを動かすためにはいいことだと思う。けど、その物差しのついた眼鏡をかけたまま世界を見たって何も分からない。

 

 

正解も不正解もない、ただ解釈だけに埋め尽くされて、それぞれの人が自分の思うそれぞれの正義を掲げてぶつかって混沌としてる世界。けど、もっともっと広い目で見ればただ一点にすぎない世界。そんな世界が僕の理想。