感ガエル

日記になればいいなぁ

忘れ物。

よく分からないところによく分からない物を置きっ放しにしてしまうことってよくある。一人暮らしだと家に帰ってきた時に関西人なら「なんやこれ」って一人でツッコむ声が部屋に響く。実家暮らしなら家族の人が勝手に片付けてくれて、後で「なんなんあれ?」と聞かれることがある。けど、シェアハウスだとそうじゃない。

置き忘れたものはそのまま。

これが結構面白くて、なんせ一緒に住んでいるのは生活習慣の違う人達だから置き忘れたものの意味がわからない。そこで誰の得にもならないけど家に住んで面白かった忘れ物を3つ紹介。

まずはこれ。

f:id:sfactoring:20180620100441j:plain

僕がトーストを焼こうとするとこれがあった。

シュールやなぁ...展示物みたいやん。笑

捨てていいのかわからないから、犯人を探すためグループLINEで聞いてみた。

    f:id:sfactoring:20180620102007p:plain

するとあっさり犯人発見。

         f:id:sfactoring:20180620102032p:plain

どうやら彼女は朝急いでいて、焼いたはいいが食べずに行ってしまったらしい。

いや、気づけよ!朝飯食ってないかどうかは自分でわかるやん!笑

かわいそうなトースト。忘れ去られたbreakfastはdinnerの時間になるまで放置されたままだった。

 

次はこれ

f:id:sfactoring:20180620100508j:plain

朝起きて顔を洗おうと洗面台に。寝ぼけていたのと目が悪いから見たときは銀色の何かがあるくらいだったけど、次第に浮かび上がるシルエットとAsahiの文字。

缶ビールや。

しかもちょっと残ってる...多分誰かが昨日の晩に飲んだあと洗面台に置いたんだろうけど、なんでここなんや!キッチンすぐ近くにあるやろ 笑

 

そして最後。これに関しては意味がわからなかった

f:id:sfactoring:20180620100558j:plain

炊飯器の上にmac book

炊飯器の蓋の裏側がスピーカーみたいで変にスッキリ収まって見えるのが腹立つなぁ...

いつも革新的な生活を提案するAppleでもこんな使い方は想定されてないはず 笑

あとで持ち主であるドイツ人に聞いてみると、前日のパーティで音楽を流すために炊飯器の上に置いたらしい。正直理由を聞いても意味がわからなかったが、どうやらそういうことらしい。

まぁこんな感じで毎日忘れ物が多い。これからもっと面白い忘れ物があることに期待。

 

 

 

 

 

 

f:id:sfactoring:20180620100622j:plain

なんやこれは...

六本木Art Night 2018

僕はアートが好きだ。

そんな僕にとって東京では毎日どこかで美術や芸術にまつわる展覧会があるから飽きない。そして今回僕が飛び込んだのはこのイベント

www.roppongiartnight.com

 概要としては六本木ヒルズを中心とした一帯を二日間だけアートの街として様々なイベントやインスタレーションで埋め尽くしてしまうというものだ。このチラシを見つけたときに「行くしかない!」と思ってハウスのみんなを誘った。ハウスについてはこの記事を見てもらえばわかると思う。

sfactoring.hatenablog.com

で、行ってきた。

f:id:sfactoring:20180612155200j:plain

f:id:sfactoring:20180612155255j:plain

国立新美術館(写真上)には「こいのぼりなう!」という展示が。(写真下)空を泳ぎまわるこいのぼりを水中の中から見たように展示されている。自由に座れるように設置された「人をダメにするソファ」が灰色で統一されているのはこれを川底の石に見立てて、僕らが川の一員になったことを表すためだろう。

f:id:sfactoring:20180612155336j:plain「空気の人」と題された現代アーティスト・鈴木康広氏の作品。目に見えない空気という存在を人の形に切り取ることで可視化し視覚で感じるようにした。このアートの意味が伝わらないことは作者にとっていいことではないかもしれないけど、子供が空気の人に触れて遊んでいるのを見ればそれもそれでいいと思えるだろう。

f:id:sfactoring:20180612155431j:plain東京メトロ六本木駅付近の広場に置かれたインスタレーション。磁石でできた箱型の作品には色とりどりのチューブがつけられていて、それらを使って体でアートを感じられる作品。子供だけでなく普段は働いているであろう成人男性や女性も子供のように触れて遊んでいたのが印象的。

f:id:sfactoring:20180613110652j:plain展示だけじゃなくてワークショップも開催されていた。これは自分を中心に置いて大切な場所を実際の物理的距離ではなく心理的な距離に基づいて点を打った後にそれをつなぎ合わせるポートレート。僕は勘違いして都市名や場所の名前ではなく、人の名前で結んだからより鮮明に心理的距離が現れていると思う。また、こうして最後に繋いでから見ると浮かび上がってくる関係性もあったりするので、作っているときもできた後も見て楽しめる。

 

このように様々なアーティストが街中をインスタレーションで埋め尽くしたり、様々な展示が町中に溢れかえってた。そしてそれを楽しむ人々でも溢れかえってた。アーティストだけじゃなく六本木ヒルズ周辺に並ぶ店も協力してたから、普段の六本木ヒルズとは全く違う賑わいの仕方をしていて1日だけテーマパークと化していた。規模の大きさとしては、国立新美術館東京ミッドタウンから、六本木ヒルズくらいまで一帯がそういう風な感じ。実感がわかないだろうけど、僕は東京ドームの大きさが分からないから比べようが無い。笑

その中にいる人々全てが普段から芸術に興味があるとは思えなかったが、彼らはすごく楽しんでいた。これらのインスタレーションや展示は直島のように常設するわけにはいかないからこの日が終われば撤去されてしまうんだけど、それでもこのイベントが打ち出しているコンセプトである、生活の中でアートを楽しむライフスタイル、は一夜限りではあったがしっかりと実現されていたと思う。

 

このような活動は他にもある。

 

僕もそんなに多くは知らないんだけど、一つは新潟の「大地の芸術祭

www.echigo-tsumari.jp

今年はちょうど開催年なので、興味ある方はぜひ。

 

また、これは少し違うが生活にアートを近付ける、という部分では似通っているのが徳島県神山町で行われているアーティストインレジデンス

www.in-kamiyama.jp

徳島県神山町に海外からのアーティストが一定期間滞在した後、その作品を街全体で眺める。アートやその制作期間を通じて町の人とアーティストがコミュニケーションを取れる素敵なイベント。

僕が知っていてパッと思いつくのはこのくらい。もしもっと知ってる人がいたらコメントで教えてください!

 

このような活動が日本全国で巻き起こって行けばどれだけ素敵だろうか。

もう少しアートが身近な存在になってもいいのではないだろうか。

そう思う。

日本の日本じゃないところ

今住んでるところを紹介しようと思う。

僕が今住んでるのは外国人とのシェアハウス。 

f:id:sfactoring:20180607143112j:plain

株式会社ボーダレスジャパン(https://www.borderless-japan.com

が管理・運営をしてる「ボーダレスハウス」というシェアハウスで、住んでいる人(ハウスメイト)は全員で20人。

 

家の形は上から見ると「ロ」の字の形をしていて、真ん中に中庭がある。

f:id:sfactoring:20180607173109j:plain

右奥にあるのが共有スペースのキッチン/ダイニングで、他の共有スペースとしてランドリールームがあるけど、洗濯物がいっぱい干してたから写真は断念。

 

シェアハウス・ルームというとプライベートが無いイメージがあるけど、

この家には個人スペースとしてそれぞれの人に個室があるからプライベートな時間を作りたければ部屋にこもることが出来る。(僕も音楽を聴きたい時や本を読むときは部屋にこもる)

f:id:sfactoring:20180607175153j:plain

f:id:sfactoring:20180607175225j:plain

あとはトイレとシャワールームが「ロ」の字の四隅に付いていて、共有で使ってる。

ちなみにこの家は今年の3月に建てられた家だから、まだ綺麗だけどどうやら他のハウスは違うらしい。

家自体の紹介はこんな感じかな。

 

 

次にハウスメイトについてだけど、管理会社が男女比と外国人日本人比を1:1で調整してるから半分が男性で半分が女性。そして半分が外国人で半分が日本人。

 

このことを話すと、

 

「えっ!?テラスハウスじゃん!」

 

っていう人がいるけど、あんなキュンキュンした展開は一切無い。

 

一緒に住んでる人は家族まではいかないけど、友達にしては関係が深いから「ハウスメイト」っていう関係性を表す名詞を使ってしか表せない関係性だと思う。

 

話が逸れたけど、この外国人達も国籍が様々。(イギリス、アメリカ、ドイツ、中国、インドネシアスウェーデンなど)

日本に来た理由も様々で、インターン・語学留学校・大学への留学生が多いかな

逆に住んでる日本人の肩書きも様々で、東京でインターンしてる人、学生、フリーター、システムエンジニアなど。

  

だから、1人で住むよりは格段に刺激が強くて、生活の節々で出てくる国籍の特徴や、バックグラウンドの違いから出てくる面白さが溢れてる。

自分が外国に行って感じる面白さとまた違った感覚がある。

  

日本にいるようで日本じゃない感覚。 

 

 で、他の特徴としては

調理家電や調理器具(カトラリー含む)と洗濯機はシェア。

それから一番上の写真に小さく写っているけどシェアサイクルが用意されてるから、スーパーに買い物に行きたいときはあの自転車で買い物に行ける。

あとは共有のテレビにNetflixが付いててNetflixが自由に見れる。

それから、Wi-Fiが家賃に含まれてるからWi-Fiは入居者なら自由に使える。

 

ざっと説明するとこんな感じかな。

まぁ、僕からすると十分すぎる場所に住んでる。特にこの家の初めての入居者っていうのもあると思うけど、ハウスメイトとの仲がすごく良いことは大きなことで、本当に楽しい毎日を過ごさせてもらってる。

当たり前だけどすべてのシェアハウスが仲がいいわけじゃ無いから僕は恵まれているんだなぁ、と思うと同時にこの時間は短いからしっかり噛みしめていたいなとも思う。

f:id:sfactoring:20180607181352j:plain

 

#もしもSNSがなかったら

 

先日、「SNS展 #もしもSNSがなかったら」に行ってきた。

moshimo-sns.jp

 

SNSは普段からよく使ってるし、メディアを題材にレポートを書いてたこともあって、興味はすごくあった。

これに行くきっかけになったのは同居人に

 

「これ面白そうじゃない?」

 

ってLINEで誘われたから。

で、その3秒後には

 

「あ、行く。」

 

って返してた。

 

で、

「そういえばSNSっていつからあるんだろうな」とか「LINEが消えたら連絡取れない人ってどれくらいいるんだろ」

って考えながら電車に揺られて、その後歩いてたら着いてた。

f:id:sfactoring:20180603001559j:plain

もう夜やん。もう終わるやん。って思いながら中へ。(家を出たのが遅かったせいなんだけど)

f:id:sfactoring:20180603001804j:plain

f:id:sfactoring:20180603001828j:plain

「入場無料」の四文字に感謝の意を評しながら入るとなんと展示は写真撮影OKとのこと。

「あぁ、神」なんて使うことないと思ってた言葉が出た。(最近多くなってきたけど写真撮影OKは僕にとってすごくありがたい。)

f:id:sfactoring:20180603002308j:plain

f:id:sfactoring:20180603002833j:plain

f:id:sfactoring:20180603002904j:plain

 この展覧会で展示されていたのは大きく分けて4つ。

① キュレーターによって選ばれた公募作品

② キュレーターの作品

③ ”She is” が選んだアーティストの作品

④ 「#もしもSNSがなかったら」で寄せられた投稿で作られた作品

 

キュレーターには様々な分野で活躍されている方々。のんさんや、ゆうこすさんなどがいました。

"She is"は

自分らしく生きる女性を祝福するライフ&カルチャーコミュニティ(公式サイトより引用)

らしい。僕も知らなかった。

 

 

 

 

で、ここからが感想。

まず始めに入場者の年齢層が若い。

僕がよく行く美術館やアートの展覧会に比べると、格段に低い。僕の行った時間帯が遅かった、というか終わる間際だったことも一つの要因かもしれないけど、それよりも大きいのが参加しているアーティストやキュレーターが大きく影響力を持っている層が10代〜20代女子だったていうことだと思う。

実際の来場客数の年代別データなどを見ていない(というか公開されない?)ので一概に低かったとは言えないけど、僕としては僕らよりも上の年代や、SNSを知らないだけでなんの理由も無しに怖いものだと決めつけている人がたくさん行ってくれていたら嬉しいと思う。

 次に展覧会全体として、TwitterFacebookInstagramの三つのSNSに焦点が当てられてた。日本人がよく使ってるSNSといったらこの3つが上がるからかな。 

けど

SNSの定義を「ネット空間において繋がりが形成可能なサービス」とするとLINEもそうだと思ってたんだけど、今回はそんなに大きくは扱われてなかった。(「SNS」って言葉だけ聞くと自由に誰とでもネットワークを形成可能っていうイメージが強く出るからっていうのもあるかも)

ここからはLINEもSNSとして含めて進めるけど、今の10~20代の人でSNSを利用してない人ってもうほとんどいないんじゃないかって思う。

 

ちなみに、

SNSの起源

=インターネットを民間人が利用できるようになったタイミング

=1995年にNSFNetが民間へ移管されたタイミング

で、 

SNSが本格的に使用されるようになった(FacebookTwitterの登場・日本上陸)のは2000年代前半のこと

 つまり、今20代の人が10歳くらいの時にはSNSは使う人は少ないけど使われていたってことになる。

 

 だから、冒頭でも書いたけどLINEがなくなったら正直ほとんどの人と連絡が取れなくなる。(確認してみてほしい。僕と同じ年代の人だと高校以降に出会ったほとんどの人とは連絡取れなくなるんじゃない?)

 

今は連絡先聞くときも電話番号よりもLINEのQRコードを見せてもらうし、所属する組織内での伝達事項もLINEのグループ機能を使って行ってる。

 

つまり、LINEはある意味でのインフラとも言える存在にまでなってるから、もう僕らの生活からは切っても切り離せないものになった。

 

でもLINEはまだ他のSNSに比べて、SNS色(自由に誰とでもネットワークを形成可能っていうイメージの強さ)の薄いサービスだと思う。

LINEって今まで電話番号とかメールアドレスの代わりみたいなものとして使われてるから代替品として役割を果たしてるけど、TwitterFacebookはそれだけじゃない。

 

 

僕は大きく以下の2つはSNSTwitterFacebookを背景に)の大きな特徴だと思う。

① 時間も距離も飛び越えて、点から点へとつなぎ合わせることができるようになった。

② 利用者が均質化された発信空間を作り上げた。

 

  

1つ目。例えばTwitterで「趣味垢」を持ってれば想像できると思うけど、リアルで全く会ったことのない人に繋がることができるようになった。あるライブが好きな人のアカウントには他のライブが好きな人が実際には会ったことないけど、フォロワーにいる。Facebookでも「知り合いかも!」には「あ、この人名前だけ聞いたことあるわ」って人がいっぱい出てくる。

 

これがSNS無しだと「ライブが好き」ってだけの人2人が出会うことはまず無い。顔と名前だけ知ってる人をそれ以上知ることはできない。

 本当に繋がろうと思ったら膨大な時間を労力を必要とするのに、今ではタップひとつするだけで繋がれてしまう。

こういう風に散らばっている点(人)と点を自由自在に結びつけられるのはすごく大きなことだと思う。

 

 

2つ目。FacebookTwitterInstagramもタイムライン機能がある。時系列に沿って自分がフォローしている人が発信していることを見ることができたり、自分から発信することだってできる。

 これってすごく面白い。

 例えばクラスではあんまり話さない子がTwitterのツイート数が20,000件だったりする。そうするとクラスでは全然喋らないあの子の言葉でタイムラインが埋め尽くされたりする。そう、ここにはクラス内の序列や発言機会の不平等さは存在しない。誰もが決められた字数で自分の言いたいことを言えるし、それはフォローしてくれてる人に平等に届く。

 

これが僕の思うSNSの特徴なんだけど、これは同時に弊害も生んでる。

 

 1つ目で言うと、SNSを使うことによって人は点と点の繋ぎ方は上手くなったと思うけど、線の引き方は忘れつつあるように思う。どこに行くにしたってgoogleマップを使えば目的地までの距離と時間が最短距離で出てくる。何かを調べるときもキーワードを打ち込めばすぐに出てくる。

 

すごく便利だけど、道中の偶然性は無視される。

 

線を引いていくことはその目的よりもプロセスに重きを置くから、そのプロセスでは何が起こるか分からない。その偶然性はとても面白いし、普段とは違う視点を与えてくれたりする。不特定多数の人と自由に繋がれることによって生まれる偶然もあるけど、線を結ぶことによる偶然もそれに劣らず面白いと思う。

 

 それから二つ目で言うと、人との距離が常に密接状態になってしまう。これが原因でSNSから離れる人もいるんじゃないかと思うけど、アプリを開けばタイムラインが自動的に表示されるからフォローしている人たちの今が嫌でも目に飛び込んでくる。今まではリアルに会うか、電話で話すかしないと情報は来なかった。少なくとも、今よりも能動的に働きかけなければ知ることはなかった。それがタイムラインによって受動的に入ってくる。(噂話も受動的だけど、SNSより格段に遅いし範囲が狭い)

 これによってもう見たくない!って人も嫌になるだろうし、発信する人も常にだれかにチェックされてるような気分にもなる。つまり情報を伝え、受け取る手段が増えたから、より一層気を使う羽目になった人もいるのがもう一つの弊害だと思う。

 

 でも、SNSは素晴らしいサービスだと思う。まだ新しいサービスだし、不安要素も多いけど使い方によっちゃ本当に有用なサービスだと思う。何より自分で生産したものが瞬時に多くの人に伝えられるのは本当に大きい。だからSNSは使われるより使う側に回った方がもっと面白い。

 

  

結論としては、「怖さや不安はあるけど、使い方をしっかりわかっていれば有用なサービス」だと思う。

 

 

 

 

 

余談だけど、もしもSNSがなかったとしても人と人が繋がる速度は以前より加速していたと思う。SNSはネットを介して人と人が繋がるシステムだから、SNSがなくてもネットは存在する。ていうことは、点と点を的確につなぐことはできなくとも同じ趣味趣向を持った人たちを大きな輪の中でくくることはできるから、人と人が繋がる可能性は上がっていた。かな

 

参考:

http://sorise.org/sns-history

世界には解釈しかない。

これは僕が今持ってる考えで、広がればいいなという思いと僕の整理のために書くことにした。

 僕は今大学を休学して東京に住んでる。なんで?って聞かれることが多いけど、特に目的は無い。強いて言うなら、「自分についてもっと考えてみたくなった」かな。(理由を聞いてくれた人には申し訳ないけど、実は最近聞かれるのが苦痛になってたから、適当な理由を貼り付けてた。ごめん。笑)

 

で、正直僕自身なんでそんなに「何をするの?」とか「なんで?」って聞かれることが不思議だったから、どうして聞いてくるのかを考えてみた。そしたら多分だけど、みんな不安なんじゃないかなって言う結論にたどり着いた。

 最近になって休学する人が増えてきたけど、今でもまだ休学するのは日本では普通じゃない。正直僕も休学することに不安を感じたときもあったし、休学について考えるときに一週間くらい自分の家から出られなくなったときもあった。 まぁ、留学やインターンみたいな社会的に(見た目が)いい理由を持ってなかったから。「大学は四年で卒業して早く社会に出る事がいい」という考えがあるから、休学するときは周りから当然反対はあったし、相手に納得のいく理由を求められるときもあった。

けど、本当に大学を四年で出ることがいいことなんだろうか?説明できる理由がなければ休学してはいけないだろうか?

僕の先生の言葉を借りると、「人間は自分が思っている以上に自由」だ。

 「自分勝手やってもいいよ」ってことじゃない。

「自分の行動や言動に自分で課した自己制約が多いんじゃない?」ってこと。

 休学することによって就職が不利になるかもしれない。休学したら一年社会に出るのが遅れて社会に出ている人とのスキルの差ができる。親が休学なんて許してくれない。

 休学していた理由を自分言葉で説明できるなら休学して就職が不利になることは無いしそもそも自分のことがわからないまま就職して1年過ごしていたって、なんの意味があるんだろう?親は僕らが自分のレールに乗っかってくれることを望んでなんかいない。(レールに乗ることが正しいと信じる親もいるけど、それはその親が子が幸せになるための手段として自分の敷いたレールに乗ることが正攻法だと信じているから)親はいつだって僕らが幸せに生きてくれることを願ってくれている。休学が親に許されていないと思うのは悪いけどあなた自身が作った制約だと思う。(親に納得されなきゃ、親が納得する段階にあの手この手を使って説得してみればいい。僕がそうだった。)

 自分で勝手に付け加えた「自分法」がどれだけあるか見直してみると、意外と多いことに気づける。いらない不安を減らしていけばもっと身軽に生きられるんじゃないかな。

 

 で、まぁ東京をのんびり満喫してるんだけど、東京には本当にいろんな人がいる。人ってこんなに多いんだって実感できるくらいの人が毎日自分の生活を描いてる。彼らの生きる方法は様々で、僕はそれが垣間見えることも東京のいいところだと思う。

「世界には人の数だけ正解がある」みたいなフレーズを見たことがあるけど、

 僕は「世界には人の数だけ解釈がある」って言いたい。

 例えば、今世界は貨幣経済で日々動いている。その世界ではたくさん働いて、お金をたくさん稼ぐ人が良しとされ、働かずにお金が全く無い人は「何してんだ!」って言われる。つまり、働いてお金を稼ぐことが「正解」で働かずお金を稼がないことは「不正解」

 でもどうだろう?働いている人の中に働くことが何かをわかって、自分が何を生み出して生くのかわかっている人はどれだけいるんだろう。これがわかってもないのに働いている人なんてロボットに変えた方がよっぽどマシだとさえ思う。

 つまり、この世にはいろんな人がいる。その解釈が社会という物差しにあてがわれた時のみ正解と不正解が生まれる。

そして、人と人はその物差しによって図られた自分を他人と比較する。こんなことに意味があると思うだろうか?

 

 

 

僕は思わない。

 

 

 

確かに、この解釈に正解や不正解のレッテルを貼って不正解を殲滅することは社会をよくしたり、そのシステムを動かすためにはいいことだと思う。けど、その物差しのついた眼鏡をかけたまま世界を見たって何も分からない。

 

 

正解も不正解もない、ただ解釈だけに埋め尽くされて、それぞれの人が自分の思うそれぞれの正義を掲げてぶつかって混沌としてる世界。けど、もっともっと広い目で見ればただ一点にすぎない世界。そんな世界が僕の理想。

春風。

春風がゆっくりと前から近づいてくる。

 

 

 

 

 

 

 

少し薄い橙色の暖かさを背負って。

彼女の匂いを少し掬って。

 

 

 

 

 

来る。

今向かいの交差点にいる。

 

 

 

 

 

 

青になる。

 

人が動くとともにやって来る。

 

 

 

 

来た。

 

 

 

 

 

すれ違った。

 

 

 

 

 

過ぎ去っていった。

 

 

 

 

彼女の匂いを少し乗せた春風は、

通り間際にそれを置いていった。

 

 

 

 

 

それだけで僕は

 

 

彼女を少しだけ知れた気になった。

それは一夜にして街を違う世界へ連れていってくれる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

普段は相対的にしか感じられない僕を

絶対的に僕であるように思わせてくれる世界に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その色は全てを流してくれる

その音は永遠を感じさせる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日が沈む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長い長い一日が

 

人々の営みが

 

形を成して顕れる

 

 

 

 

 

 

 

 

静寂の中、

それらを見て今日という日を感じる

 

 

そして自分の後ろを見て

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を感じる